人生をどうしたいのか具体的に決める

人生の目的

教会などで、「神の御心のままに生きなさい」と教えられて、人生に主体性をもたなくなり、自分への自信もなくなって、そのうち不安が増大してかえって悩みを増してしまう人がいるようです。教えてくれる牧師か神父の教え方がずれているのです。何でも受容して主体性をなくせという意味などではないのです。

すべてに誠心誠意尽くし真心で生きるのが本質

もし、神の御心のままに私心を捨てて生きるのであれば、その人は、その決意の日から、すべての物事を誠心誠意、真心をこめて取り組み、自分という人間の才能を可能な限り磨き、世のため人のために役立てる道を開き、周囲の人々に言葉と行動で愛と真心をつくして、その「神の御心」を実践すべきなのです。そして、自分の今おかれた立場と状況の中で私心を去り、ひたすら周囲の幸せや人類の幸福のために地道に全力を尽くすことが正道となります。それが本当の「神の御心のままに生きる」意味です。ところが、この言葉を「運命を受け入れて流されるままに生きること」と勘違いしてしまうことから、間違いが始まります。

志を持って生きなければ魂は磨けない

この世に生を受けた以上、人は誰でも人生に志をたてて、自分の人生を素晴らしきものに創造する責務があるのです。一言で言えば「人には幸せになる義務がある」のです。その義務を果たさないから、心は悩みと苦しみに苛まれるのです。この意味で悩みと苦しみは天からの警告です。本当になすべきことに誠心誠意打ち込んでいると、悩むヒマなどありません。その出発点は自分の人生をどうしたいのかを具体的に思い描くことなのです。すべてはそこからです。ビジョンが定まれば、後は進むのみです。そして、それはキリスト教のいう「神の御心」であり、儒教のいう「天命」であり、仏教でいう「仏道を行ずる」であり、神道でいう「日常において神を行ずる」であるのです。

すべてを捨てるとすべてを得る

道教では、老子の言葉で「道するものは日に日に損す。損して損して無為となす。無為にしてなさざるはなし。」とあるのも同じことです。自我とかエゴがどんどんなくなると究極には不可能はなくなるという意味です。没我没頭の努力ができないのは我を捨てられないからです。まずは立志発願、次に没我没頭をしましょう。あなたは人生にどんな志を立てますか?天下万民の幸せにつながるような大きな志を立てて、それに向かって、全力を尽くす過程で、小さな自分の我を捨てる修業を重ねていくことこそ、本当の意味で、「神の御心のままに生きる」ということになるのです。立志発願のないところに、良き人生は生まれません。立志発願とは夢と希望です。幼子のように明るく前向きで元気な心の状態です。

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